マニュアル作ってます

ふーーーーーーーーーーー

今、マニュアル作ってます。

なんのマニュアルかというと、
大会当日のゲストスタッフが大会2日間どう動くかというマニュアルです。
(スリーピークスではボランティアと言わずにゲストスタッフといいます。コースディレクターの小山田さんが、こんなに大会を思って集まってくれている人達だから、ボランティアと呼びたくない!と言いまして、ゲストスタッフと呼ぶことになりました)

なんだかんだ修正が多いのです。特に誤字が多くて・・・

なんだかんだ修正が多いのです。特に誤字が多くて・・・(笑)

スリーピークスはマニュアル多めです。

これは、私がほかの大会のスタッフをした時に、
マニュアル記載内容が少なくて「いったいどうしたら・・・??」と不安になったので
自分が不安にならない用に作ってみたら、こんな感じになりました。

それに、大会なんて開催したことない素人が作ったもんで、
パワーポイントの資料だし、受付から豚汁配布までマニュアルがあります。
全部合わせたら100ページぐらいあるのでは??

そんなこんなで、作ったマニュアルですが
姉妹レースのAkita Trail Run Festivalなど、日本各地でこのマニュアルを流用してくださってます。
全国で5箇所ぐらいの大会にデータを渡した気が・・・

でもねぇ、とにかく誤字が多くてですね・・・
毎年修正が大変なのですよ(笑)

とりあえず、今年も無事大会が開催できるよう、今朝からマニュアルとにらめっこなんですけど
こうやって見てみると、私自身忘れていることもあったりして
「あーーーーそっかーーー」
って思い出したり、去年よりより良くなったところがあったり、逆に今年から初挑戦のものがあったり、書き出すと止まらないですね。

いまからゲストスタッフの配置決めもしなければ・・・・

だれがどこの箇所でお手伝いしていただくかは
100%私の独断で決めています。

マーシャルは走れる人のが良いと思われがちですが
いろんなスピードの方がいなければ成り立たないポディションなので
他大会のリザルト見たりして。。。

3回目の大会ですが、今年ゲストスタッフに100名を超える応募をいただきまして
涙が出そうなぐらいうれしいです。

ゲストスタッフの方には、ちょっとしたお礼をご用意してます。
でもほかの大会のように、手厚いお礼ができずにごめんなさい。

スリーピークスのように小さな大会は、ゲストスタッフの方の力が全てです。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

さ。。。作業に戻るか。。。。
現実逃避のブログでした(笑)


ボロボロな倉庫

大会の開催許可を取る。
それは、申請はもちろんですが、地域へのご挨拶も含まれます。

とくに、田舎であればあるほど、よそ者や、初めてのものに対する、ネガティヴな印象はなかなか拭えません。

申請に関しては、親友の寛子が、それはもう完璧に仕上げてくれます。

地域への挨拶も、実行委員長をはじめとした、実行委員の皆さんがあれこれしてくれています。

もちろん私もご挨拶に行きます。
その時に必ず言うことは

私が開催地出身である事。
そして、私の祖母の名前です。

私の祖母は

「神谷亀代(かみやかめよ)」

という名前で、その珍しい名前は、一度聞いたらなかなか忘れられません。

 

狭い田舎だと、
どこの生まれ?ばぁちゃんは誰?
と、聞かれることが多く

「小渕(こぶち)の神谷ですー」

と言うと、

いままで「誰だこいつ?」と警戒心を露にしていた相手が、
「なんでー亀ちゃんの孫けー。えらいこんするじゃんー」
(訳:あら、あなたは亀ちゃんのお孫さんなんですね?よくこんな大変な事思いつきましたね)

と、急に態度が柔和になったりして、頑張ってねと、励ましの言葉までもらえたり。
大会を運営していく上で、この祖母の孫であった事を、感謝する機会がとても多かったです。

 

5月2日。20時30分。

そんな祖母が亡くなりました。

91歳でした。

約12年間、肺気腫を患い、肺炎と胆のう炎で入院したのが、一昨年の秋。

肺気腫だった為、麻酔をしての手術が出来ず、胆石が除去できませんでした。

この1年半、絶食での闘病生活だったので、家族としては、

「もう充分。本当におばあちゃんよく頑張ったね、お疲れさま。」

その一言に尽きます。

 

危篤状態になったのは4月23日。

そこから3度
「今日が山です。覚悟してください。」と言われるも、みごと帰還。
それでも4つ目の山は越えられず、天国へ旅立ちました。

しかし、肺気腫と診断されてから12年。何度となく峠や山を乗り越えて、その度に見事帰還する祖母に、「生き抜く」という強さを教わった気がします。

 

我が家は両親共働きで、幼い頃から祖母は親代わりでした。
そして、私は祖母から田んぼや畑仕事のあれこれを教わりました。

私の年頃で農業の手伝いをする子は少なかったので、多感な年頃はボロボロのジャージ、長靴、麦わら帽スタイルでの野良仕事は、正直恥ずかしく、同級生の姿を発見したら、トマトのビニールハウスに身を隠したり、田んぼの土手に寝転んだり(笑)

友達に映画に誘われても、ネギの植え替えや、じゃがいもの収穫があるからと断らねばならず、なんで私ばっかり、休日は野良仕事なんだよ・・と嫌になったこともありました。

でも、今となってみれば、そうやって地域の方々と話をする際に、
田植えや稲刈りの話をしながら、交流が広がり、深まっていくことが出来るのは、やっぱり
祖母に野良仕事のあれこれを教わったおかげです。

スリーピークス八ヶ岳トレイルのコース整備でも、たまに鍬で耕すことがあるのですが
きっと私以上に、鍬ワークが上手な人はいないでしょう(笑)

小淵沢の祖母が建てた家は、本当にボロボロで、
でもあの歳には珍しく、シンブルマザーだった祖母が
私の母と曾祖母さんを養いながら建てた家だと思うと、ボロボロだからといって壊す気にもなれず、ずっとボロ家を放置していました。

しかし、スリーピークス八ヶ岳トレイルが始まって、いろんな物品を保管しておく場所が必要となり、お化け屋敷のようにボロいけど、屋根はあるということで、
祖母の家はスリーピークス八ヶ岳トレイルの倉庫となっています。

祖母が4月末に危篤となり、
あぁ、いよいよこの時が来てしまったな・・・と思いながら、落ち着かない日々でした。
本来であれば、危篤状態から病院に詰めていなければいけなかったのでしょうが、
家でじっとしているのも、病院にいるのも、まるで祖母の死を待っているようで耐えられませんでした。

普通に、いつもと変わらない生活を。
いつもどおり一生懸命生きよう。

だから、いつもどおりレースに出たり、コース整備をしたり。

見方によっては薄情な孫と思われるかもしれませんが、
私が一生懸命生きることが、一生懸命死に立ち向かってる祖母に対して一番だと思ったからです。

お別れの時。
私は、祖母の死に立ち会えましたが、
どちらかというと、祖母が私を待っていたというのが正解です。

思い出せば、家の門限を何度となく破り、
母から「もう帰ってくるな」と締め出された私を、
こっそり鍵をあけ、入れてくれたのは祖母でした。

遅刻常習犯の私。
祖母が大変な時も、みんながすでに集合しているのに、私だけまだ付かず
祖母はもうすぐにでも楽になりたかっただろうに
私の到着を待って息を引き取りました。

正直、まだ祖母の死を受け止められない自分がいて
まだ会えるんじゃないか、病院に行けば寝てるんじゃないか、
そんなことないのに、祖母の面影を追ってしまいます。

今回ブログに書いたのは、
自分の気持ちの整理の為と、祖母への感謝の気持ちを
なにか形にしたかったからです。

足が悪かったし、酸素ボンベが必要だったから
1度も大会を見に来たことなかったけど
お祭りが大好きで、食べることが大好きだった人だから
きっと今年は大会会場に遊びに来てくれると信じています。

大会が終わったら、倉庫となった祖母の家のペンキでも塗り直そうかな。
だれか手伝ってくれるかな?(笑)

あんまりいい孫じゃなかったけど
喧嘩も盛大にしたけど
亀ちゃんに似て、頑固だし、気は強いし、負けず嫌いだし、
またきっといろんな人を困らせると思うけど、がんばるよ。