想いを繋ぐ

3.11の大震災から5年経った。

時の経つのは本当に早くて、それぞれが、それぞれに「あの時」を思い出すのではないか?

私の「あの時」は、ちょうどエレベーターに乗り込んだ時だった。

けたたましい音とともに、閉まるはずのエレベーターの扉が閉まらず、何が起きてるのか分からぬまま、エレベーターの扉の「閉」ボタンを押したまま、呆然としていた。

はっと気がつくと、1階にある証券会社の社員さんが、一斉にビルの外に飛び出す姿が見え、その時やっと私は、これが地震であることに気がついた。

地震だと気が付くと、今度は恐ろしくなって、足がその場に固まってしまったかのように動けなくなってしまった。

「あなた!そこにいては危ない!逃げなきゃ!」

証券会社から飛び出してきた女性社員の1人が、私の腕を掴み、私はようやくその場を離れることができた。

甲府は震度5強。

東北の方々からしたら、大したことない揺れ。津波もなければ、家が倒壊することもなく、家族も全員無事だった。

しかし、それから程なくして、私の生活は否応なしに変化を迫られた。

震災から約半年後。

私は仕事を失った。

当時私は、某電力事業系列の会社で、委託社員として図面を書いていた。

ちょうど、システム移行を行おうとしていて、そのための研修に、山梨支社を代表して、何度も都内まで出張に行っていた。

今後のシステム移行から、作業まで担当するはずだった。

でも、震災後には、現場作業が絶対ではない、遠隔地でも対応可能な作業であると、本社が判断し、私の委託業務は急遽終了となった。 

その頃私は30歳で、まだまだ転職するのに遅くない時期だった。だから、仕事を失ったと言っても、恵まれていた方だったと思う。

ただ、たかが委託社員とはいえ、3年半も通った職場から、あっという間に終わりを告げられた時の悲しさや虚しさや寂しさといった感情は未だ忘れることが出来ない。

何度も言うが、実際に震災にあった東北の方々から比べれば、私の悲しみなんて、取るになりない。
震災の後、山梨県内は電力確保のための計画停電なるものが、各地で実施された。

停電は約3時間程度だが、街の明かりが無くなっていく事に、恐怖を覚えた。

明かりが「安心感を与えてくれる存在」であった事に気が付いた時だった。

当時、実家には肺気腫の祖母がいて、24時間の在宅酸素治療を行っていた。停電中の酸素ボンベの確保や、風邪をひいたら命取りと室内の温度管理など、いつもと違う状況にかなり戸惑ったのを覚えてる。

でも、家があって、家族がいて、支え合っていける。

それがどんなに素晴らしいことだという事に気が付くことは、あの時まで無かった。

あれから5年経ち、その時転職した会社も退職し、その間にスリーピークス八ヶ岳トレイルという大会を立ち上げ、今年で4回目を迎える。

私なりに、毎日七転八倒しているが、こうやってやりたいようにやらせてもらえて、日常が目まぐるしく動いたのとは反対に、未だ時計が止まっている方も多くいると思うと、胸が痛い。

そして、この5年の間で、あの時いた祖母は他界した。

祖母が亡くなるまで、約1年ホスピスに居たので、私たち家族は祖母の死に対する用意ができていた。

気持ちの面でも、生活の面でも。

それでも、まだ、わたしは祖母の死が受け入れられない。

いない事は分かっているのに、会うことが出来ない現実にきちんと向かい合うことが出来ないまま1年が経とうとしている。

でも、震災で失われた命はあっという間で、誰1人心の準備も出来ぬまま、大勢の人々が別れを強いられた。

その方々の気持ちを思うと、別れる時間も、離れる覚悟も与えられた中で、祖母を見送った事に、恵まれてると思わなければならない。

震災で失われた尊い命の1つ1つを思い、祈ることしかできないけれど、決して忘れないという想いを繋いでいきたい。

失われた日常を思い、明るい未来へ繋がるお手伝いが少しでもしたい。
そんな思いで

「チャリティナイトラン 金曜ロード走」

を開催した。

名前はふざけているが、内容的にもゆるゆるランだか、集まったメンバーの気持ちは熱く、山梨から東北へ向けられた。

クリフバーさんのご協力もあり、ステッカーやグミ、リフレクターなどをセットにした参加賞を1つ500円で販売。

その費用を全額寄付させて頂いた。

  
走ることも、熱い思いも、出来ないことを無理やりする支援ではなく、自分達が自分達らしくできることで、誰かを助ける小さな一歩になれば、普段見ている街の景色も違って見える。

きちんと未来に繋がるお手伝いを続ける。

今後も微力ながら、できることを探して、ランニングや、登山から笑顔を繋げる活動が出来たら、嬉しい。