天子は悪魔なんかじゃない。800の偶然?必然?

800って? ヤッソ800のことじゃない。モンゴル800のことでもない。昔から八という数字は末広がりで縁起がいいとされる。八と百で、たくさんの、あまたのという意で使われますね。八百屋は季節ごとにたくさんのものを売るから八百屋、八百万(やおよろず)の神は、たくさんの神様という意味になる。

日本で霊場とされる恐山878m、比叡山848m、高野山奥の院820m、近くの麓や昔の宿場からの標高差であれば800mを下回るわけだが、昔は麓までの交通機関がないので、自分の住んでいる村を基点にすれば単純標高差800mの登山だったのではないだろうか?結界(人と神様の領域を分ける地点)として800mというバーが設定されて、神様にお願いするならこれぐらいの試練は必要だぞと。でも決して不可能なものではなく、節度ある営みをもって健康に暮らしていれば、老若男女、だれもが可能な登山の標高差だ。これ以上の富士登山などは、山岳信仰における「行」であり、誰もが達成できるものではなかったのだと思う。

UTMFの後半、西富士中学校520mから最初のピーク、天子ヶ岳1305mの標高差785m、第二回UTMFの序盤W1麓818mから雪見岳1605mヘは787mの直登

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2014大会の中止が残念でならない八ケ岳スーパートレイル100マイルにおける大河原峠への林道登りは1000mほど。でもここは最初から車が通行することを前提にされた林道だから当てはまらないか。

名の知れた日本のトレイルランニングレースで核心となる登り区間は800mが目安という私の持論。そして日本の三大霊場の標高も800m前後、これはコース設定者が意図したわけではないだろうし、偶然なのか、あるいは昔の移動路や登山道としてのトレイルが「一度にこれ以上は無理じゃね?」という落としどころとなった必然なのか。逆に言えば、これなら行けるでしょ、ランナーなら行けなきゃだめでしょ、ということ。だから、トレミの傾斜走であれば800mは普通に登りたい(かなりきついよ)、自分が使えるビル階段に標高差80mという場所があるが、それなら10本はやりたい。ウルトラトレイルは全体としては「行」なのかもしれないが、1つ1つはできる範囲の積み重ね。普段の練習から、この800mの登りを平然と、ルーティンのようにこなしたい。そうすればレース前半なら急がず、後半なら怯えず、「いつもの登り」だと思えるんじゃないだろうか。(というか無理やり思い込ませる)あくまでも気持ちの問題。どんなに疲れていても、脚が終わっていても、いつもやっている「ああ、あれね」と思えば、また一歩、もう一歩前に進む気持ちの支えになるんじゃないか、と考えてみた。

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トレミで800mはキツイというか飽きる。今日はこれぐらいで勘弁したる(笑)

「激走モンブラン」のDVDのナレーションにモンテ峠が800mとあるのでこのネタがヨーロッパ系の山岳レースにも当てはまるか、いろいろ高低図を調べたら、山が大きすぎて当てはまらず。気持ち悪くなってきたのでやめときます。北米の走れるレースがいいなあ(笑)

UTMFまであと28日….

 

 


Run with smile on dirt (resp. for ” Run smart on dirt”)

ここ数日、SNSを賑わしているネタに鎌倉市のトレイルラン規制の条例化問題(あえて問題と書いた)がある。 D&Cのサイト(リンク)に条例化への陳情の全文掲載されているので読んでみてください。

普段、鎌倉を走っているランナーであれば、「そんなことはあり得ない」と思うでしょう。実際に普段の状況において、そんなマナーの悪いランナーにお目にかかることはない。しかし、残念ながら、鎌倉アルプスというレースにおいては、少なからずとも、そう誤解されても致し方ない状況があったのは事実です。自分もそのレースを走った経験があるので間違いありません。単純にあそこでレースをすべきではなかったのです。自分も参加したわけですから、他人への批判ではなくランナー仲間としての反省です。また、最近の高尾ー陣馬間において、かなり追い込んでトレーニングをしているロードランナーの中には、少し驚くことがあるのも事実です。すれ違いや追い越しで十分にスピードを落とさない、ダブルトラックほどの幅なら歩きに切り替えるのが原則です。ですから高尾ー陣馬の主稜線で昼間の時間帯は心肺系に主眼をおいたトレーニングはすべきではない、というかできないはずです。人が少ない南や北高尾ならば大丈夫かなとも思いますけれど。

自分の場合、山を走るきっかけになったのが、ランナーズの特集でした。そこに「トレランのマナー」みたいなページがあって、田中正人氏(この人の名前をしらないトレイルランナーも増えている時代)が、実体験を交えて書かれていた。かなり、ネガティブな体験談も。また下の写真は、今では廃刊となってしまったアドベンチャースポーツマガジンという雑誌だが、そこに、計画段階で中止に追い込まれたツールド谷川の記事が掲載されていた。ですから最初の段階で、結構ネガティブなこともあるんだという認識を持っていた。最近の「ランナーズ」で、その手の話題に触れた記事があっただろうか?専門誌であるならば、マナーや価値観の違いからくる軋轢も隠さず伝えて欲しい。興味本位で十分な検証もせず、視聴者受けを狙ったマスメディアの餌食になる前に、ランナー全体の意識レベルをあげる必要があると思う。ランナーズ、クリークといったロードランナーに読まれている専門誌なら、なおさらのこと、ロードランニングにおけるトレランの効能を記事にするのと同じ回数を、マナー説明にページを割いて欲しいと願う。自分自身、あまり読まなくなってしまったが、やはりロードランニングから参入する人たちにとって、これらの専門誌の影響はいまだ大きいはずだ。トレイルランニングはランニングの1つの形態であると同時に、登山、ファストハイクの1つの形態でもあるはず(スピードが違うからリスクと装備が異なるだけ)だから、この議論は登山者同士のマナー談話であって、条例で規制したりする問題じゃなかったはずだ。でも、なにかボタンを掛け違えてしまったんですね。世の中には多種多様な価値観があって、その伝え方も時には感情的で恣意的だったり、どうにもならないこともあるのかな、と。残念です。

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この手の話、前記の条例化陳情案もそうだが、多くの場合、普段のトレイルランニングアクティビティとレースという特殊な状況を混同して論じられることが多い。中には科学的な論拠が不十分と思えわれる内容もあるが、逆に言えば、そうさせるぐらいの感情的な対立が、レース主催者と反対団体の間に生じてしまったのだろう。この現在の状況を3年ほど前に予見し危惧されていた方がいる。石川弘樹氏、そのブログ(リンク)に、ランナーとしてできること、レース主催者としてできることが整理されて書かれている。この石川氏のブログエントリーは今の自分の考え方の基礎になっているもの。私自身は石川氏と直接お話したことはないのですが、文章からもその繊細さがお見受けできます。(だから女性にモテるんだろうなあw)そのブログ記事のタイトルが「 Run smart on dirt…願う事」と、これがまた二枚目なタイトルなわけです。いちいちカッコいい。だから、respectを込めて、ちょっとパクリました。(すいません)Run with smile on dirt. 挨拶やマナーって形だけでは意味がないという人もいるけれど、まずは形から入るのも1つの方法だと思います。そこから、一歩進めて、挨拶するとき、笑おうよ。というのが自分の軽いノリの提案なんです。笑うには当然、相手の顔を見る、相手が驚いているのか、気づいているのか、あるいは怖がっているのか、全然オッケーなのか、相手の表情を見ればわかります。多くのハイカーにとってランナーが走ってくるだけで怖いのです。そもそもまた相手の顔を見るということは、自分の目標方向への視線をいったん切るわけですから、十分にスピードを落とさなければできないはず。一石二鳥なわけです。もちろん、レースで笑っていられない状況もあるかと思いますが、そういうレースは年に1回、奥多摩あたりの夜間走で行われるレースで悶絶表情に磨きをかければよいのだと思います。そういうのも嫌いじゃない。だから普段はできるだけ笑って相手のお顔を見れば、よいことがありそうな気がします。集団で鎌倉はもう無理なのかもしれませんが、自分はこれからも一人、二人でなら堂々とマナーよく鎌倉を走り続けるつもりです。これでも銭洗弁天下で生まれ、材木座幼稚園出身なんです。ふるさとを走れないなんて悲しすぎます。

Run with smile on dirt  貴方もいかがでしょうか?

 


さようなら国立競技場 – 「激走」に感謝

国立競技場のトラックで行われていたランニングプログラム「激走」の最終回へいつもより少し早めに向ったが施設定員のため受付できず(泣)神宮外苑を軽くジョグをして国立競技場にお別れを告げた。この国立競技場のトラックを走る機会をくれた仲間や、スタッフの方々に感謝、感謝。

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元サッカー小僧であれば、芝のピッチで行われた伝説的なゲームの数々を思い起こし、元陸上少女であれば、このトラックを蹴って走る自分を夢見て部活動をしていた自分を思い出すのでしょうか。自分は学生時代にサッカーや陸上経験がないので、そういった観点ではないのですが、1964年、東京オリンピックの年の生れであり、そしてスポーツに関連する仕事をしているがゆえに、親近感と同時に、スタジアムの意味合いを考えることが多い。

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2020年の東京オリンピックを控え、新国立競技場のデザインが話題になっていますね。建築デザインとしての評価、交通機関からのアプローチ、障がい者競技への配慮もすばらしいものだと信じたい。自分はそれを評価することもできませんし、コメントする立場にもない。もっとも、個人的には一般市民レベルのロードレースのスタート&ゴールにも利用しやすいように、ゲートを広めにとって渋滞が発生しないようにしてもらいたいなあと、随分と小さなことを心配している(笑)

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自分がもっと関心があるのが、新国立競技場になってからの運営面だ。見た目は近代的で、スポーツという大義名分のもとに、大金を投じてスタジアムを建設しても、それを活用していくソフト面に投資をしていかなくては、まさしく昔のダムや地方空港と同じ箱物行政だ。「国立」であるが故に、常時一般開放したり、特定チームがホームとして活用するといったことはし難いのは理解できるし、地方自治体や民間と、国が運営する意義の違い、なんて理屈もありそうだが、スタジアムはたくさん人が集まって初めて意味があるもの。競技としてたくさんの人々に使われて初めて意義のあるもの。サッカーの代表戦や国際試合、学生でもトップレベルの競技が行われるだけのスタジアムにはなってほしくない。これまでもこの「激走」プログラムで毎週、月)木)に走る機会があったわけだけれど、このようなタイプの一般開放をたくさん行ってほしいと願う。そしてジュニアのプログラムもね。子供にとって憧れの選手が競技をした翌週に、家族で同じピッチ、トラックを走れたら、どんなに素晴らしい思い出になることだろう。どんなに素晴らしい箱ものを建設しても、そこに人が集まらない、競技施設として開放されないのであれば、まさしくただの箱である。文化としてのスポーツレベルの低さを国として露呈してしまう。まだ時間はある。建造物と同じぐらい、その運営面にも十分に人材と運営ノウハウを投入してほしいと願う。オリンピックでいくつメダルを取るかじゃなくて、一般競技者としてでも、観戦者としてでも、どれだけ多くの国民がスタジアムへ足を運んだかっていうのがその国のスポーツ文化レベルの高さであり、幸福度なんだと思うぞ。一般の競技者が使用できない「聖地」である必要はないんじゃないかと。そもそも「聖地」って、宗教であれば誰でも巡礼できますよね(笑)

Say good-bye to the National Stadium… またいつか、国立競技場でお会いしましょう。

 


少しづつ

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九州の某所、日当りのいい斜面の桜の花が気の早いことに。少しづつ、確実に季節は移り行く。(明日、雪がちらつくらしいが)

 

 

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今日の自分の手。4ヶ月前にボルタリングを始めたときに、同じような写真を撮ったのだけれど、指の太さがまるで違う(自分から見れば)。この1ヶ月ちょい、故障で走れずジムでバイクや筋トレ、そしてクライミングジムで登る機会が多かった。それでもやはりランニングの運動量には大きく及ばず、4kgの体重増、筋トレで脚部に筋肉がついたとは思えない。どうも性格的なものか、筋トレでは追い込めず、筋肉痛にならないのだ(Parkにいかなきゃだめなんだあ)ところが、体組成計(これはかなりあやしいのだが)では4kgのうち、2kgが筋肉、計測時の体内水分量一定、どこに筋肉がついたかと考えると、クライミングに必要な肩から背中だと思う。腕が太くなったようには見えないけれど、指は明らかに太くなった。ちょっとづつ、少しづつ。コアも強くなってランニングに生かされるといいなあ。

先週は東京マラソン、明日は静岡マラソン、あとは板橋やはなももも残されてますね。一気に壁を突き破る人、少しづつ、ちょっとづつ、PBを更新していく人。自分はどちらかというと、少しづつ、というタイプらしい。確かに過去にブレークスルーが起きるレースを何度か経験しているが、その前の数回のレースはパッとしなかったり。少しづつ、ちょっとづつ、そういうのも自分らしくていいんじゃないかと。

故障にしてもそういうことだと改めて思う。鍼を打っても、鍼の力を借りているだけですよね。自分の治癒力以上の事は起こらない。だから慌てず、今できることをやるしかないんだなあと。少しづつ、ちょっとづつ治していこうと思う。