先日、同じチームの友人が山で滑落して帰らぬ人になりました。
体力もあるし足も速いし、決して山をなめていた人間ではありませんでした。
一般の登山者よりはるかに多く山を楽しんでいた男です。
残念でなりません。
どうしてまだ必要とされている人が逝ってしまうのか・・・
悔しいです。
実際、海外でも滑落事故は起きています。現に2012年のReunion の100マイルレース。そのレース中に二人の選手が滑落し、一人は他界されました。
本当に一瞬の隙をついて事故は起こると思います。
私は22歳のとき、卒業と同時に就職活動など一切せず、当時でも先鋭的な社会人山岳会に入会しましたが、数年後に結婚してしまったが為にその後誰もザイルを組んでくれなくなったので退会した経験があります。
今を思えば当時のザイルパートナーが、事故が起きた時の責任を取りたくないから(新婚だから)「お前とは行かない」と思われたのだと思います。それは生き残った人が語りべとなり、残された遺族への説明義務が発生してしまうから。
もし事故が起きてしまったら奥様とお子さんにどうやって説明したらよいのか・・ それは辛いことです。
私の山岳会時代は主にクライミング、しかも冬の岩壁を何十ピッチも登るような、それは厳しい登攀が主体でした。そのために毎日走りこみ、仕事はロープでぶら下がるビルの窓ふき。冬の就寝は窓を全開で耐寒訓練。
行く山域は谷川、穂高、丸山東壁・・
とにかく冬山の為に生活しているようなものでした。
そんな経験をしている私でも、やっぱり鹿島槍、穂高、剱などの岩稜歩きは怖いと感じることがあります。
なぜだと思いますか?
クライミングはザイルを使います。信頼できるザイルパートナーがビレイしてくれるから、「俺が落ちても絶対止めてくれる!」と思えるから、厳しい核心部でも思い切ってその一手、一足が出せるのです。
勿論そうは言ってもアルパインクライミングの中では墜落は許されません。誰が打ち込んだかわからないボルトやハーケン、でもそれを仮にも信じてランニング(中間支点)を取らなければ前進は出来ないのです。 クラックがあればナチュラルプロテクションを取れますが、フェースやスラブだとそうはいきません。信頼関係こそが成功のカギです。
ところが・・・岩稜歩きはザイルなど使いません。(一部のガイド登山では使用します)
みなさん、普通に歩いています。
特に一般の方、もし疲れていたり、話に夢中になったり、岩角でちょっとつまずいたらどうするのでしょう?
集中力の途切れたその一瞬! 人は重力には逆らえないのです。
ザイルを使用しない岩稜歩き。私は一瞬のミスも許されない真剣勝負だといつも思いながら歩いています。これってちょっと大げさでしょうか?
今から足を置くあの岩、凍っていないかな?
あの木の根っこに裾が引っかからないかな?
ザックのストラップが岩角に引っかからないかな?
足を伸ばそうとしゃがんだらザックの下が岩に押されないかな?
などなど、常に危険予知をしている自分がいます。
もうこれ以上山の仲間を失いたくない!
徐々にでも、今後はそれについて色々考えて行きたいと思います。
稲葉 実 さん どうか安らかにお眠りください。