ゲストランナーとして出場してきた「SAIGŌ Trail 1877」についてでごわす。もろもろたまっているわけでごわすが、フレッシュなものから書いてしまわねばなのでごわす。□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
空を仰ぎ見るようにして峠の終わりを探す。そばにいた一人が進んではアゴを上げ、まだ道半ばということを確認して視線と肩を落とす。
トレイルランニングレースのさなかである。周囲を走るランナーの誰もが先を急いでいる。ところが、急傾斜の長い登りがそれを許してはくれない。
落ち葉の上に、慎重に置いた足がずるずると滑り落ちてくる。腐葉土がボロボロと崩れ落ちていた。人の往来が絶えて久しいことを物語っていた。
落ちてきた足を再び踏み出す。先ほどとは違う場所に足を運ぶ。そっと、そしてぐっと体重をかけて。崩れないことを確認して、両手で木の幹や岩をつかんで全身を持ち上げ、ようやく一歩前進する。
難所を越えようともがいていると、一人またひとりとランナーが増え、いつの間にか集団が形成されていた。同じようなペースで進み、同じように足を止め、ダラダラと流れ落ちてくる汗を拭う。肩に食い込むザックが痛いのか、肩のストラップの位置をずらして調整するランナーもいた。息を整えながら、4人がまた先を見据えた。
「まだ続くのか」「エグい」「キツいなあ」
それぞれの吐く息とともに弱音が漏れた。たどっているのは、140年前に西郷隆盛が追っ手をかわすために選んだ道。鹿児島への敗走を可能にした、厳しいトレイルだった。
「SAIGO」が意味するもの
西郷にゆかりのある大会は「SAIGŌ Trail 1877」。西郷の名前をそのまま名称としている。いったい西郷は何に敗れ、逃げ延びねばならなかったのか。日本における最後の内戦「西南戦争」にさかのぼる。1877年に起きた士族の武力反乱である。明治という新時代に不満を抱く士族とともに、西郷が盟主となって蜂起した。
人員、物量で圧倒する明治政府を相手に、西郷の率いる軍勢は戦いが長引くにつれて追いつめられていく。延岡では、10倍以上の官軍に包囲されて窮するものの、西郷らは精鋭のみを集め、包囲網を突破して山に逃げのびた。そして故郷である鹿児島を目指し、あすの見えない山行を続けていく。
険しい山々と道なき道は少数精鋭の西郷たちに味方し、数で勝る官軍の襲撃をかわしながらの逃走を可能にした。西郷のたどった敗走路の一部が、この大会のコースである。初回の区間は延岡市から高千穂町までだ。
2日間にまたがるSAIGŌ Trailは、九州で初めてのステージレースでもある。両日の合計タイムで順位を競い、初日は距離38km、累積標高が2,900m、2日目は24kmと2,000m。初日のコースを歩いてたどろうとすると、日の出とともにスタートしても、深夜にようやくゴールできるかどうかといったところか。なかなかにハードな道のりだ。
敵に追われ、休むこともままならない西郷が立ち寄り、宿をとった民家がスタート地点。現在、その民家は西郷隆盛宿陣跡資料館として整備されている。
走り始めてすぐに細いトレイルへ。前半は登り基調が続く。選手が黙々と登っていく。可愛岳に向かう登山ルートから右にそれて、大きな石の転がる下りに突入。紅葉も終わろうかという季節とあって、朝は冷える。身体が温まるまでは着込んでいるランナーが多い。中には西郷隆盛にならって着流し姿で参加した選手も。上野の銅像と同じような格好だ。着物が足元まで伸びていて動きにくい上に、足袋なので滑りやすそうだった。
中盤で舗装路をはさみ、再びトレイル。鹿川峠につながる急登だ。峠を越えて下れば、残りはキレイなアスファルトだけなのだが、険しい登りを前にして上位の選手にも疲労の色が見える。「ザックが重くなってきました」と口にする選手もいた。
大会では2日間の行動食や寝袋、防寒具などの携行が決められているため、5〜10kgほどのザックを担いで走る。背負うだけなら大した重さではないが、動きの重心や負荷のかかる筋肉が変わり、普段トレイルを走るよりも消耗度合いが激しいのだ。
ザックの重さはスタートからほとんど変わっていない。重量が気になるのは、それだけ消耗してしまっているからだ。重くなっているのは足取りなのである。
ピークを踏みたい。まだ見ぬ景色のために。あるいはゴールへ。目標のために人は頑張れる。追いつめられていく西郷が、それでも敗走を続けられたのはなぜか。故郷に帰ろう。そんな純粋な一念が西郷を支えていたのだろうか。真実は誰にも分からない。山だけが知っている。
膝や腰に手を当て、あえぐように呼吸を繰り返すランナーたち。後ろを振り返ることなく、静かに登り続ける。真っ直ぐに前だけを見て。