すっかり闇に包まれた。ヘッドライトが照らす光の中を進む。勝負は割と平坦な笹ヶ峰から戸隠までの区間だと読んでいた。
125km地点の西登山道入口、130km地点の大橋林道を通過。モリジーの疲労はピークを迎えていた。大橋林道から戸隠までの区間でモリジーの体調が悪くなり始めた。腸頸靭帯炎から2回目の痛み止めの服用。ジェルが受け付けられなくなった。加えて、気分も悪くなり始めた。精神と肉体が限界がきたのか満身創痍の状態だった。
気がつくと後ろに着いてくる気配が無くなった。振り返ると立ち止まって吐いている。胃腸が丈夫なことが自慢でレース中に吐いたことは初めての経験だった。
初めて経験することに弱気になってペースダウンすることを回避したい。ここで走らなければ関門突破できないことが確定してしまう。信越五岳は走れる100mileレース。走れる所は走らないと制限時間内に完走は絶対にできない。もたもたしている場合ではない。僕は少しイラついていた。走れる所は走れ!でなれば完走できないぞ!檄を飛ばした。怒りもあった。体調が良くない状態だが厳しいと思われようがなんだろうと完走のためには心を鬼にする。冷静に状況を見極めまだまだ行けると見込んだからできることだ。僕は完走請負人に徹することにした。
ハアハア、ゼイゼイと荒い息使いが背中越しに聞こえている。自分が初めて100mileを完走した時とその姿を重ねていた。息が上がる。逃げ出したい程、苦しい時だ。でも息が上がっていても身体が動く限りは走ることができる。
完走したいという気持ちだけなのだろう。必死に僕に着いてくる。良いペースです!予定通りです!次のエイドまであと2km!要所では声を掛け続けた。
背中越しに彼の荒い息遣いを感じながら僕は引っ張り続けた。完走に必要なことは完走するという強い意志、自分を信じる強い心を持ち続けることだ。必死に着いて来い。決して言葉にはしなかったがそんな思いを持ってリードし続けた。
ようやく142km地点の戸隠スキー場に到着した。時間は28時間17分。第5関門突破。関門時間には1時間13分の貯金だった。最も苦しい区間を凌いだ。完走に一歩近づくことが出来た。戸隠そばを二杯ずつ頂いた。モリジーはなんとか補給は出来るようだ。ホットタオルのサービスで顔を拭いてリフレッシュさせた。
最後のボスキャラは瑪瑙山の登りと下りだ、瑪瑙山は高々、標高1748mしかない。しかし、すでに142km走り続けた心身にはとてつもなく辛い山となった。なんとか凌ぎ切り、最後のエイド飯綱山登山口152km地点に到着。残りは約8kmの林道。ここまで来て完走を確信できた。時間的には歩くことも出来たが最後まで全身全霊を込めて走らせたかった。それが彼のためになると信じてリードし続けた。
ハイランドホール飯綱のフィニッシュゲートでのアナウンスが聞こえてきた。フィニッシュが近づく。ゲートが見えた。深夜にも関わらず、ゲートの向こうには沢山の応援者がいた。二人並んでフィニッシュを迎えた。時間は32時間26分56秒。制限時間に対して約33分。ほぼ予定通りのフィニッシュタイムだった。
ゴール後、深々とお辞儀しながらモリジーが発した言葉。
「神山さんにペーサーをお願いして本当に良かった。ここまで連れて来てくれてありがとうございました。」
素直な感謝の言葉に不覚にも僕は泣いてしまった。
「泣きそうになるからこれ以上はやめてくれ。100mile完走おめでとう。」
震えた声が自分で恥ずかしかった。
背中で語る。僕が無言でモリジーに伝えたかったことは100mileを完走するには自分の精神や肉体の限界を越えることが必要なことだ。自分の限界とは自分で勝手に思い込んでいる頭の中のリミッターみたいなものだ。ずっと長時間苦しさに耐えていると、ふとしたきっかけでリミッターを越えられることがある。スイッチが切り替わる、突き抜けるといった表現の方が分かりやすいのかもしれない。全身全霊を込め続けて、突き抜けた先にモリジーが見たものは何なのか?それは今まで気がつかなかった新しい自己の発見かもしれない。あるいは、生きていることを深いレベルで知ることかもしれない。僕が彼に望むことは全身全霊を込めてようやく手にしたものにどんな価値があるのかじっくりとレース後に考えて欲しいだけだ。100mile完走とは人それぞれに意味があるものだ。この経験が彼の今後の人生にとって意味あることになることを僕は期待している。
鞭を打つようにしばき倒して、ペースメイクして無事に完走できたから僕は安堵している。これが真逆の結果だとしたら。そんなことは想像したくはない。自分のペースメイクを信じて文句ひとつ言わずに着いてきてくれたことに感謝しかない。自分も彼とともに昨年の忘れ物を取りに行けたことで充実した気持ちになれた。僕にとってもこの体験は一生の思い出となるであろう。