この夏、お世話になったある山小屋のおやじが甲州弁だった。こわもての外見だったが、山の話を始めると、「~ずらあ」と優しい口調になり、口元が緩んだ。説教口調ではなく、やさしく諭すように。下の内容は私の考えなのですが、あのおやじが話すとこんな感じかな、と想像してみた。語尾に「ずら」をつけただけで、正しい甲州弁ではないのですがお許しください。
山で遊ぶ全ての者、山で死んではいかんずら。
山は遊ぶところ、死ぬところじゃない。
山での死を美化しちゃいかんずら。
そいつは新田次郎の小説だけでいい。事故には必ず理由がある。そいつは理解されなければいけないよ。運が悪かった、よかっただけで語られるべきじゃない。
事故を起こした者を責めてはいかんずら。
山のリスクは全ての者に平等に存在するから。そして山だけが特別に危険な場所ではない。街中の交通事故、自らが気づかずに進行していた病、目に見えないリスクは生活のあらゆる場所に存在する。むしろ山のリスクの多くは、情報で可視化し、自らの身体を鍛え、体力、知識、装備で最小化できる。恐れるべきものは、目に見えないリスク。それはたぶん私たちの心の中にある。
今日はやめてもいいずら
判断力は最大の装備。条件が揃ったときにまた登ればいい。走ればいい。それまでの準備の時間、アプロ-チ、途中までの行程、それらを同行者と楽しめたなら、それだけで最高の山行ではないだろうか。ランニングレースでも完走を美学に感動の押し付けをするDVDや、タレントを走らせるテレビ番組を私は嫌う。
それでもたぶん、私は登る、走る。
尊敬するトップランナ-/山岳ガイドを偲んで。
そしてもう一人、トレイルランニングの先輩への弔辞として。
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