久しぶりの更新です。
昨年、楽しませてもらった甲州アルプスのレースレポートを書き始めていたら、あれよあれよと言う間にこのコロナ禍、レース云々よりも、ほんのわずかなジョグでさえ幸せに感じる日々であり、ちょうど故障中であった自分には、自分のランニングを見つめ直すよい日々となっています。
新型コロナウイルス(以下コロナ)は人間の本性を映し出す。所々で起きている価値観の相違、そこから起こる分断、分裂、やっちまった輩 vs 自粛ポリスという対立、人数が多ければ、多種多様な考えがあるわけで、あまりそれを気に病んでも仕方ないと思っていた。ただこの価値観の違いが、現代の情報の取り方に起因しているとしたら少し悲劇だ。情報が事実と違う事があれば、私のようにブログを書く場をいただいている、あるいはツイッターなどでフォローワー数の多いランナーの方々は、きちんと事実を事実として世の中に伝えた方がよいのではないかと考えました。
その代表例が、ランナーのマスク問題。本来の研究目的と異なる内容で一人歩きしてしまった(させられた?)。トレイルランナーであり、フリーライターの山田氏が、一連の報道の根拠となった研究について、解説とともに、世間の風潮を彼らしい考察でチクリと風刺。
https://note.com/h_yamada/n/n7713747e32e3(Noteへのリンク)
山田氏の解説にもあるように、そもそも目的が異なる。ランナーに限ったことではなく、歩いている場合も同様に起こるスリップストリームの距離と方向性のシュミレーションであり、感染することは無関係の解析であり、論文自体にもその記述がある。そもそも時間の概念が存在せず、すれ違いの一息で感染するのであれば、今頃、人類は滅亡していませんか?正直この解析システムの宣伝目的としか思えない。これ以上、突っ込んでも仕方ない稚拙なもののわけだが、あえて突っ込むなら、風の影響を考慮していない(Q&Aによる解説から)この時点でいかがなものかと首を傾げる。そしてランナーの想定スピードは時速14.4km、キロ4’10″というサブスリーペースで街中を走るのかい?日本のすべての人が英語の原文を読むべきということではない。少なくても影響力のあるテレビ報道や、有名著名人であれば、SNSで拡散する前に、Google翻訳に海外の解説をコピペで放り込めば大体の意味は掴めるわけで、最低でもそれぐらいの検証はしてほしいと願う。テレビの報道は私も見ていたが、山中教授はこのシュミレーションに一言も触れていない。あくまでも他者への配慮としてバフを紹介しただけ。本来、そういった配慮が必要な場所、時間帯、速度を考えるべきこと。そしてシュミレーションがテレビ編集でバフの紹介と一緒に放映されたため、SNSで拡散されるうちに、山中教授がシュミレーションにお墨付きを与えた印象となっている。
ランナーを好きになってほしいとも思わない。全ての人がランニングを愛する社会など、気持ち悪いだろう。色々な考えがあっていい。ただ、それはできるだけ発信元、あるいはできるだけバイアスを排除した発信者に近い情報ソースにアクセスできる情報の収集力、読解力(リテラシーというやつか)がベースになければならない。その上で違う考えを持つ人に寛容であってほしい。この自粛要請の中、もっとも困難なことであり、命の問題でもあるから、どこで線を引くべきか、私自身も解を持っていない。この「情報リテラシーと寛容さ」がポストコロナ時代の1つのキーワードに成り得るのではないだろうか。なぜなら、これまで隠れていた相違が明らかになり、放っておけば、分断、分裂の中で、ストレスだけが助長されるだけの社会になる。人間はもう少し賢い生き物だと思いたい。
今、私は淡々とジョグを重ね、美味しいビールを飲む。ただZOOM飲みにはご注意あれ。あれは飲みすぎる(笑)
加筆修正、追記>
2022/2月、この記事を書いてからもう2年が経つ頃、私自身が初めてマスクポリスに怒鳴られる。無視すればよいことなのに、相手にしてしまった。自分の不寛容さにがっかりしたと同時に、コロナ禍が終わっても、スケートボードのように公道でのランニングは禁止という時代がくるのではないかという恐怖を覚えた。やはり、間違っている、科学的(少なくても現時点の知見で)ではないことは、明確に「間違っている」主張していきたい。
2022/4月、追記>
東京マラソンが行われ、もちろん走行中のマスクなし、そして新宿御苑を管轄する環境省の公式サイトの文言に、「2m以上の距離があればランニング中のマスクは必須ではない。適宜判断せよ」という一文が載った。ようやくここまで来たか。本当にこのシュミレーションとマスコミの垂れ流しには困ったものです。