国立競技場のトラックで行われていたランニングプログラム「激走」の最終回へいつもより少し早めに向ったが施設定員のため受付できず(泣)神宮外苑を軽くジョグをして国立競技場にお別れを告げた。この国立競技場のトラックを走る機会をくれた仲間や、スタッフの方々に感謝、感謝。
元サッカー小僧であれば、芝のピッチで行われた伝説的なゲームの数々を思い起こし、元陸上少女であれば、このトラックを蹴って走る自分を夢見て部活動をしていた自分を思い出すのでしょうか。自分は学生時代にサッカーや陸上経験がないので、そういった観点ではないのですが、1964年、東京オリンピックの年の生れであり、そしてスポーツに関連する仕事をしているがゆえに、親近感と同時に、スタジアムの意味合いを考えることが多い。
2020年の東京オリンピックを控え、新国立競技場のデザインが話題になっていますね。建築デザインとしての評価、交通機関からのアプローチ、障がい者競技への配慮もすばらしいものだと信じたい。自分はそれを評価することもできませんし、コメントする立場にもない。もっとも、個人的には一般市民レベルのロードレースのスタート&ゴールにも利用しやすいように、ゲートを広めにとって渋滞が発生しないようにしてもらいたいなあと、随分と小さなことを心配している(笑)
自分がもっと関心があるのが、新国立競技場になってからの運営面だ。見た目は近代的で、スポーツという大義名分のもとに、大金を投じてスタジアムを建設しても、それを活用していくソフト面に投資をしていかなくては、まさしく昔のダムや地方空港と同じ箱物行政だ。「国立」であるが故に、常時一般開放したり、特定チームがホームとして活用するといったことはし難いのは理解できるし、地方自治体や民間と、国が運営する意義の違い、なんて理屈もありそうだが、スタジアムはたくさん人が集まって初めて意味があるもの。競技としてたくさんの人々に使われて初めて意義のあるもの。サッカーの代表戦や国際試合、学生でもトップレベルの競技が行われるだけのスタジアムにはなってほしくない。これまでもこの「激走」プログラムで毎週、月)木)に走る機会があったわけだけれど、このようなタイプの一般開放をたくさん行ってほしいと願う。そしてジュニアのプログラムもね。子供にとって憧れの選手が競技をした翌週に、家族で同じピッチ、トラックを走れたら、どんなに素晴らしい思い出になることだろう。どんなに素晴らしい箱ものを建設しても、そこに人が集まらない、競技施設として開放されないのであれば、まさしくただの箱である。文化としてのスポーツレベルの低さを国として露呈してしまう。まだ時間はある。建造物と同じぐらい、その運営面にも十分に人材と運営ノウハウを投入してほしいと願う。オリンピックでいくつメダルを取るかじゃなくて、一般競技者としてでも、観戦者としてでも、どれだけ多くの国民がスタジアムへ足を運んだかっていうのがその国のスポーツ文化レベルの高さであり、幸福度なんだと思うぞ。一般の競技者が使用できない「聖地」である必要はないんじゃないかと。そもそも「聖地」って、宗教であれば誰でも巡礼できますよね(笑)
Say good-bye to the National Stadium… またいつか、新国立競技場でお会いしましょう。