いつもの年末には、その一年を振り返リ、美しい山の風景や自身の記録に残しておきたいものを、まとめてこのブログに書き留めていたのですが、今年は少し違った趣になりそうです。なぜなら2011年の東日本大震災の時と同様に、自分と家族、人と自然環境の関わりを、目の当たりに突きつけられた一年であったからです。
相方の実家で可愛がられていた愛猫(遊17歳)が荼毘に付された日、どこか遠くの外国ではマラソンランナーが42.195kmを1:59で走ったその日の深夜、この世で私が一番嫌いな音、スマホの災害情報のアラームを数回聞いた後、相方とその家族とともに、長野県千曲川沿いの避難所へと向かった。ご実家は千曲川の堤防から200mインターバルにちょうどよい距離であり、堤防決壊が起これば、間違いなくホバリングするヘリにワイヤーで引き上げられる事になる。クライマーの端くれである私は、救助員のハーネスチェックはしてあげようなどと縁起の悪い妄想を断ち切って避難所へ向かった。避難所ではスマホで千曲川の各ポイントの水位情報を調べ続ける。台風がスピードを上げて早く抜けてくれないだろうか?このまま朝を迎えるのか?焦燥感から時間の進み方が何十倍も遅く感じる。外では近所の屋根がすっ飛んでいる。
雨風が弱まり始め、水位が安定し始めたという情報が入り帰路についた。十数キロ上流で鉄道の橋が堕ち、数キロ下流では堤防決壊が起きたこの状況で、幸いにも、相方の実家は最悪の状況は避けられてはいるが、床まであと僅かのところまで浸水していた。本流からの越水はなく、逆流を防ぐために閉ざされた水門によって、行き場を失った山からの支流の水がこの浸水をもたらしたのだが、路地を挟んだ温泉街にダメージはほとんど無く、風評被害も最小限だとは思うが、台風後の北陸新幹線の運休と間引き運転がもたらした経済的ダメージは大きいはずだ。
私たちは翌日から、水に浸かった倉庫や土間から水と泥を出し、災害ゴミとなった多くの家財を処分した。写真は棚の高い位置にあった雛人形で、昔の高級品であろう、顔が美しく、気品がある。無事である事を知って義母は安堵し、僅かに涙ぐんでいるようにも見えた。
インフラや住む場所の復興は比較的早い段階で訪れるだろう。一方で、その家族やそれぞれの思い出が無くなるにはとても辛いこと。愛猫は自分の死期を悟り、避難所に自分の場所がないことを予期したのか、事前に最初の母親である相方と、私を東京から呼び寄せ、家族を守るようにと諭すように、そして眠るように老衰で安らかに逝った。全てが彼の手のひらで動いていた一週間だったのだ。
この日本列島をなぎ倒した台風が通過後、山へ行くとおびただしい倒木のある山域と、それほどでもなく、比較的穏やかな山域、そして尾根道はまるで何事もなかったように安定しているが、沢道や林道は壊滅状態の道が多い。倒木は自然林よりも根の浅い杉を中心とした人工林、そしてなによりも人間が造作した林道がこれほど脆弱なものなのか思い知らされたのだ。峠を繋ぐ巻道、コルハントがベースの海外レースに出ると、気持ちよく走れないアップダウンのある日本の尾根道登山道を嫌う人も多いが(俺だ!)今回の災害を目の当たりにすると、尾根道が長い歴史の中で残ってきた、日本の特殊事情を垣間見た気がする。
写真には写っていないが(現実直視のために写せばよかったと後悔している)河川敷のプラスチックゴミの量は凄まじいものだった。家屋からでる災害ゴミは報道でも知られているが、この現実はあまり取り上げられていない。普段はプラスチックゴミなど見当たらない美しい千曲川河川敷に、おびただしいプラスチックゴミが散乱していた。なにげなく河川敷や上流域に捨てられたであろうペットボトルやコンビニ袋、包装容器の量は、どこにそんなものがあったのか?と驚愕する量のものだった。それらがこの先、海に流れていくものなのか? そして自分もその経済循環の一部として生きていることに心が痛むのである。
台風後、多くのトレイルランニングレースはキャンセルとなるのも当然ではあるが、奇跡的に開催できたレースがある。甲州アルプスオートルートチャレンジだ。第1回の前年に行われた事前調査走から、ボランティアとしてお手伝いをしてきたレースだが、今年は選手として走らせていただいた。この状況で開催できたのは、地元との協力や普段からの整備活動の賜物である事は容易に推測できる。皆さんも来年のレース計画を立てる時期でしょうから、年明けには久しぶりのレースレポートを書いてみたいと思います。
それだけは皆さまもよいお年をお迎えください。