2014年のTDSに参加した佐藤和人さん。蚊取り線香ツアーを利用して、初の顔外レースに挑戦。いよいよスタートの朝を迎えます。
前編はこちら。
スタート地点の標高は1220m、6.5km先の第1エイド(ウォーターエイド)までガツンと700m以上登ります。さらに4.7km進みながら2435mまで登り、第2エイドまでの4kmで460m高度を下げます。ここまでで15.2km、3時間45以内にエイドを出なければなりません。
ついで600m高度を上げながら4.5km進み2603m、レースの最高地点まで達した後は9.5kmを下りながら800m高度を下げます。再び400m高度を上げて2188m、35.9km地点、ここの関門は8時間半。そして一気に約1400mを15kmほど距離をかけながら下ったところで50.7km地点の第3エイド。標高は816mでレースの最低標高になります。ここまでで11時間が関門時間。
とにかく登り、下りに要する距離が日本のトレイルレースの比ではありません。標高816mの第3エイドからは一気に2567mまで上がらなければなりません。11kmひたすら登りです。
この激登りを8割ほど終えたところで山小屋があり、老婆がジュースを売っていました。もう喉がカラカラで飛びつくように350mℓのオランジーナを2本買おうと「サフェコンビアン(いくら)?」と尋ねると「シス、シス!」と返されました。
「シス、、、16ユーロ=2,240円、1本1,140円!?」いくら何でもボリ過ぎじゃろ!「あんた、魔女や!毎年毎年、激坂で苦しんでいるランナーに高いジュースを売りつける魔女や!!」と心の中でつぶやくも、嫌味のひとつも言えないもどかしさを怒りに変換し残りの登りを頑張ろうと思いました。
こうして2567mに達した後、66.6km地点である第4エイド/ドロップポイントまでの4.4kmの崖下りになります。ここの崖下りはそのまま滑落してしまうんではないかというくらい急なので渋滞もします。ここまでの関門時間は午前1時なので、スタートして18時間以内ということになります。ようやく半分。
以降、細かく記すのが面倒になったのでまとめますが、とにかく数百メートル単位でのアップダウン。斜度もキツく、95km地点からの登りは朝方の睡魔も手伝って滑落の恐怖と隣合わせでした。ラスト8kmの林道も高低図ではフラットに見えるものの、実は登り基調だったので最後まで苦しめられました。
【エイド】
参加人数の割にはひとつひとつのエイドが狭く、序盤については食べ物、飲み物の奪い合いに近い状態だったと言っても過言ではありません。補給をしてもらうにあたってはお行儀よく待っていてもダメで「おにーさん、おねーさん、次はオレ!オレ!」とアピールしないと後から後から割り込まれる始末です。終戦直後のギブミーチョコレート!ってこういう状態だったんだろうな、と妙に納得してしまいました。
66.6km地点のドロップポイントでも荷物を広げるスペースも探さなければならないほどで、とにかくどのエイドも狭い、という印象でした。
食べ物は、パン、チーズ、サラミ、チョコ、グミ、オレンジ、バナナ、そしてコンソメ風味で麺のようなものが少し入った暖かい塩スープ。チーズはエイドごとに種類も異なり、買うと高価なカマンベールが惜しげもなく提供しているエイドもあり、ついつい食べ過ぎて吐き気をさらにひどくしてしまいました。中間地点のエイドでは暖かいパスタも出ていたようですが例の、如く食べられませんでした。
飲み物は、ペプシコーラ、水、ペリエ、ホットコーヒー&レモンティー(まとめて作っているのでぬるい)、そして「ホットウォーター」と言えばお湯ももらえます。スポーツドリンクはなかったようで、代わりにサプリ飲料みたいなものがありましたが凄まじいマズさでした。
【スタート→Col Checrouit 】
というように、各エイド単位で訥々と書き記すのもアリかもしれませんが、エイドの地名の山の綴りが面倒だったり、この駄文につきあっていただいている方が「あ~、あそこね~、そうそう、」みたいなイメージを持ちにくい気がするので、レースの全体的な印象やおおまかな行動だけまとめようと思います。
スタート直後はクールマイユールの街並みを疾走します。
街を出るとすぐに山です。参加者数1584名でほとんどの選手はポールを使います。林道のような広い登山道も終始混雑状態で時にはポールの先同士がぶつかり合ったり、たとえ流れから遅れていようとも後ろの選手に道を譲る、という文化・慣習がないようです。さらにスキマが出来れば素早く割り込んでくるため中間地点である約66.6km地点までは団子状態でした。
TDSは「関門が厳しい」という情報が頭の中で一人歩きをし、当日までロクにコースレイアウトや各関門時間を把握せずにレースに臨んでしまっているという体たらく。50.7km地点の第4エイドから66.6km地点の第5エイドまでの関門時間「午前1時まで」というのを「午後9時まで」と早い方に勘違いしたまま激登りと激下りをまさに『激走モンブラン!』的なオーバーペースで行ってしまいました。
何とか関門時間である(と勘違いをしていた)9時の約20分前の20:40頃に潜りこみましたが、身体が悲鳴を上げているかのように両脚とも腿の前後、つま先、両脇腹の腹筋、そして何故か下アゴまで攣るという、初めての「攣り祭り」を経験しました。
それでも「9時までには出なければ!」と慌てて着替え、豆乳をガブ飲み、ドロップバッグから補給食など取り出して交換していましたが、周りの選手は皆落ち着いています。
彼らはもう諦めたのか、関門時間が延長になっているのか「やっぱ外人は不真面目だ!」などと状況を整理できないままエイドを飛び出しました。
この辺から前の区間の無理がたたり胃の様子がおかしくなり始め、いつもの吐き気がやって来るわけです。ガブ飲みした豆乳も良くなかったのかもしれません。
そして今回は吐き気だけではなく、もう一つ厄介だったのがケツのトラブル=「痔」でした。
乗り換えで寄ったチューリッヒ空港で大用を足した際、トイレには便座シャワーが付いてませんでした。「あれ?空港なのになぁ、、、」と違和感を感じながらもシャモニーの宿でもそれがありません。
日頃からシャワー付きトイレに慣れてしまっている私としては度重なるトイレットペーパーだけの処理に耐え切れず、レースまでにはすっかり痛みを感じるまで悪化してしまってました。そこにきて長時間の擦れや汗冷えが作用し、エイドを出た直後にケツの痛さで思わず足が止まってしまったほどです。
吐き気、攣り、そしてあまりにものケツの痛さに「そうか!そうだったのか!」とケツに低周波の電気が走っている最中に脳裏にも瞬間的にビビっと閃きが走りました!
ふと去年の第3回上州武尊山スカイビュートレイルの説明会の際、鏑木さんが「ヨーロッパのレースで日本人が思うように結果が出せない。だから日本人がヨーロッパのトレイルに対応出来るような大会を作ろうと思いました」と計画段階の上州武尊山ウルトラスカイビュー120K(当時は115㎞で設定されていましたが)のコースマップ案が貼られたボードを舞台そでからガラガラと出したエピソードがありました。
会場が変態どもの歓声で一気ににぎやかになったことは言うまでもありませんがここでは余談になります。
何を言いたいのかと言うと、日本人がヨーロッパトレイルレースで不審な理由。体格差、トレーニングする山の規模の差、レースでの飽くなき自己主張の差、確かにそれも大きな要因だと思います。しかし、さらに付け加えるなら、シャワー付きトイレはメイド・イン・ジャパンとして世界に誇るべき製品でありますが、ヨーロッパ圏ではさほど普及していないという事実。
シャワー付きトイレに飼いならされてしまった多くの日本人はレースの際にこのケツ痛を感じながら『激走モンブラン!』していたに違いない、という推測。
この驚嘆に値する事実と推測に嘆息をもらしつつ妙に納得しながらも「気持ち悪いしケツも痛いし、このまま進んでも関門で引っかかりそうだし、もうやめよう」という自己防衛を訴える理知的な自分。
一方、「なんのためにココまで来たのか? 次回のためにも行くところまで進んでしまえ!」というオラオラ君な自分が何度も何度も頭の中で入れ替わり、その迷いにリンクして足の向きもコースの進行方向に歩き出したり、はたまた先ほど出発したエイドに戻ろうとしたりとエイドを出てから1kmの区間を手塚氏のマンガみたく行ったりきたりで後からGPSのログを見るとそこだけラインが濃くなっていたことは今では良き笑い話です。
そうこうしながら気持ち悪さがMAXに達して遂にへたり込んでしばし休憩を取ることとなるのですが、ついでにここで初めてコースMAPを確認しようと思いました。うむうむ!するとどうでしょう、完全に関門時間を早いほうに勘違いしており次の関門まで約3時間の余裕があることに気がつきました。
この予習不足がこの後の苦しみを引き起こした要因ランキング1位であることは言い過ぎではありません。やはり試走ができない以上はコース予習が本当に大事であることを”えずき”の連続で涙を流しながら痛感した次第であります。
コースに対する各関門時間を確認し終えて頭の落ち着きを取り戻し「3時間も余裕があるなら歩きでも行けるかも、」とようやくコースに戻る決心がつき始め、ヨタヨタと山を上り始めました。
しかし、この66.6km(第5)エイドを出てから86km地点にある第6エイドまでの約20kmは本当に辛いものでした。思い出すだけでもあの吐き気が蘇りそうになります。
とにかく吐き気がすさまじく、“えずき”ながら山を登って谷を下り、はたまた登って苦しくなって冷水をガブ飲みしながら堪え、耐え切れなくなると一気に嘔吐をすることの繰り返しでした。標高が高い所では霧も濃くなり止まると寒気も容赦なくやってきます。防寒着が命を救うというのは脅しではありません。
UTMFの天子で味わったあの猛烈な吐き気の再来でしたが、今回救いだったのが水が本場アルプスの天然水が途中々々の沢で飲み放題なので困ることがなかったことです。この美味しい天然水を一番飲んだの選手が私であることを今回レースでの唯一の誇りにしようと思います。
第6エイドの途中にある第3関門(74.5km地点/制限時間3:30まで/23:44に到着)になんとか到着、もう立ってもいられずにたまらずフリースの上から雨合羽の上下を着込み、霧と夜露に濡れる草むらに30分ほど横になろうと思い寝込んだところで「Ca va?(どうしましたか?)」と救護の女性に声をかけられます。
「I feel bad condition. I’ll rest about 30 minutes. But, if I’ll not be recovery, I’ll give up. 」と訴えましたが、救護の女性は「Pardon?」と聞き返す。
「嗚呼!ここでも通じてねーよ!」と不貞腐れた中学生のように思わず声に出しながら日本語で「はい、はい、OK!OK! おじちゃんはもうふて寝しちゃうからねー」とそのまま横になりました。
今思えば、もししっかり言葉が通じていたら本当にリタイアを訴えていたかもしれないので、結果的にはこの通じないTOEIC230点台の語学力に心底感謝せねばなりません。
それにしても最高のバッドコンディションながらも異国で見た眼前の夜空の星々の美しさにはもう語る言葉が見つからないほどです(なんとチープな表現・笑)。
満点の星空を仰ぎながら思ったのは「雨降らないで良かったぁ、、、しかし、まあこんな異国の地まできて気持ち悪くなって寝転んで、俺何やってんだろうな」という悔しさが沸き立ちます。悔しさと同時に、我に返ってリタイアのシミュレーションを真剣にしてみましたが、先ほどのような言葉の壁が立ちはだかる以上、このままスムーズにシャモニーに帰れる気がしませんでした。
きっと寒い夜空の中、散々待たされたりいっぱい歩かされたりしながらさらに体調が悪化しないとも限りません。言ってしまえばリタイアまでの手続きがいろいろ面倒くさそうです。そう考えると先に進めるだけ進んで朝が来るのを待った方がなんとかなる確率が高くなるのでは? と思いました。こんな時のためにクレジットカードをリュックに忍ばせております。
「街中に出てタクシー拾っていっそのこと金で解決してやろうか、そうそう、要は海外のレースに参加するということはこういったリスクをしっかり考えなければいけないんだよな」と、絶えず吐き気がこみ上げる胃袋と対照的に頭の中はスッキリと整理がついたように思えました。そして再びヨタヨタと突き刺すような痛みを抱えているケツを自ら叩きながら脚を前へ前へと進めました。
それからは、もうフラフラな状態でなんとか待ちに待った第6エイド(86㎞地点)を2:50頃に到着しました。
第3エイドあたりからたびたびに合流する日本人選手であるTさんもすぐに到着し、感想を述べ合います。初めてチャレンジする異国での山のレースではこうしたコミュニケーションは実に励みになります。
第6エイドを出発して約95km地点にある次のエイドまで9kmの下り。気持ち悪いながらも楽勝です。森を抜け明るくなってきた空に映える教会のシルエット。思えばこの区間が一番楽だった気がします。
この第7エイドに到着したくらいに朝を迎えました。朝日がヘタっている人の精神を強くすることは数々のナイトランで学んでいたことです。
さて、ここから次の111km地点の(ウォーター)エイドまで再び最大1000m近く高度を上げなければならないのですが、ここは最もキツくもありヨーロッパアルプスならではの美しい情景が広がる区間でもありました。
この辺までくると疲労・眠さがMAXに達します。眠いながらも目のくらむような急斜度を滑落しないよう一歩一歩慎重に足を置きます。過去にこれらのレースで死人が出ているんではないか?というヤバさです。
そして相変わらず胃の不快さもケツの痛みも解消されませんが、休み休みなんとか進んでいながら目に映る情景は本当に山の雄大さ木々の暖かさ、豪快に流れ落ちる水の清々しさを味わうことができ、そしてバケット・チーズ、ワインを持ってハイキングしたくなるような悠久の長閑さがあります。今度はレース以外でまた来たいと一瞬思いつつもココが何処だか分からないのでもうコレっきりなんだろうなあ、と思いながら登ったり下ったりの区間でした。
最後のエイドにたどり着き、後は林道区間を8km進めばいよいよゴールになります。これまで情けないレース展開だったのでココだけはしっかり走りきろうと思いました。
シャモニーの街中を流れる川沿いにやや登り基調の林道です。もうすっかり朝から午前中の時間になっており、散歩する人、家族連れ、おそらくUTMBへの足慣しをしている選手、すれ違う全ての人から「アレ!アレ!(GO!GO!)」「ブラボー」の声、本当に参加して良かったと、もう終わってしまうんだと、月並みではありますがここでの一歩一歩が完走へのカウントダウンのようであり、ケツの熱さ以上に胸が熱くなります。
シャモニーの街中に入ると沿道のカフェから一層喝采を浴びるようになります。普段から猜疑心の強い私は、眼を凝らして前方を確認、振り返って後方を確認しても前後に選手はおらず、とりあえず自分だけに声をかけてもらっているようです。
それにしても今まで味わったことのないような凄い喝采ぶりでかなり恥ずかしいのですが、「Merci! Merci beaucoup!」と返しながらゴールまでのわずかの区間、もう疲れが一発で吹っ飛ぶような夢のような瞬間に身を落します。
しかしここで注意したいのが、この夢のような時間を再現したいがためだけに次回は安易にエントリーしてはいけないということです。
ここに至るにあたって、脚が攣りまくり、何度も嘔吐し、ケツを痛め、滑落の危険に苛まれたことも決して忘れてはなりません。こんなに情けないレースをしたリベンジとして、今度は勝てる戦いをしなければなりません。
こうして次回のプレエントリーではこの苦しく痛い経験を踏まえて安易にポチっとしないことと、万一、再びココに来るようなことがあれば水に溶けるウエットティッシュが必携装備であることを考えているうちにゴール。29時間33分08秒、総合678/1076位の長旅が終わってしまいました。
皆から寄せ書きを書いてもらった日本の国旗やチーム旗を掲げてのゴールシーンなど、トレラン情報誌の表紙や見開きを飾るワンシーンのようにカッコ良いことをする気には当初から毛頭ありませんでしたが、それにしても水溶性のウエットティッシュのことを思いながらゴールをすることになるとは思いませんでした。
もちろん約30時間の大レースを終えたという達成感もありましたが、それと勝るとも劣らずシャワー付きトイレという「ものつくりの大国・日本」発の優秀な技術力とそれに甘んじている脆弱な日本人の危機をしっかりと思い知らされたゴールでもあったわけです。
完走率は以下のとおりです。
■出走者 1584名
■完走者 1076名(完走率67.93%)
また、日本人参加者に特化した数字もありました。
■エントリー 42名
■出走者 37名(全出走者のうち2.3%)
■完走者 18人(完走率 48.6%)
分母が小さいので単純比較ができませんが、やはり日本人の完走率が低いことが分かります。
さて、こうもダラダラと書き綴ったレポートが出来上がる頃には来年のエントリーをどうするか?ということを考えなくてはならない時期に来ていることでしょう。
今年のUTMF、TDS、そしてTDSの後に参加した上州武尊ウルトラスカイビュー120Kのいずれも胃をやられて苦しいレース展開を強いられてきました。
その他にも、初夏の野辺山でも秋のハセツネでも胃の不調を感じながらの内容ではありましたが、症状がひどくなる前にギリギリ逃げ切った感じでした。仮に次回のUTMBに抽選当たったとしても、今の実力では完走できる自信がありません。とにかくロングに弱い胃袋を何とかせねばなりません。
そのためにもウルトラ的な大会に数多く参加して場数を踏むのが近道のような気がするので、3~6月まではひと月に1本は大会に依存しながら経験を積みたいと思います。そして2回目の海外レースは7月のアイガーウルトラトレイル(スイス/101km/累積標高6700m)もありかな、と考えております。
このアイガーウルトラは相馬さんの一番直近に参戦されたレースでもあります。ファウルホルンの山頂で彼は一体のどのような景色を観たのか?かの地に立って自分の目でそれを実際に確かめたいと思っております。
そうなるとその後に続くUTMBをどうするか?ということになりますが、年に2回海外レースのために会社を休んだら、間違いなく今以上に極悪非道な制裁が待っているに違いありません。ここは奥歯を食いしばり唇をかみしめ拳を握ってグッと我慢するしかないようです。
レース後のことは蛇足になりますが一応記しておきます。
レースが終わって宿に帰り洗濯機を回したまま文字通り死んだように眠りました。洗濯機の説明書きがフランス語で理解不能だったので、一晩中洗濯機が回っていたのは今だからこそ告白できることです。申し訳ありませんでした。
翌日はメインレースであるUTMBのスタートを観戦。そして翌日のお昼には第1位で入ってきたフランソワ・デンヌ選手の王者のようなゴールシーンを良いポジションで見ることができました。
せっかくのシャモニーであるのにもかかわらず悪天候によりロクな観光をできなかったのでこのまま日本に帰るには名残惜しかったのですが、このデンヌ選手の堂々たるゴールを見ることができたので良しとしましょう。
その日の午後にシャモニーのお菓子屋さんでUTMBのロゴ?のメダルチョコを自分用のお土産に買いました(確か6ユーロ≒840円)が日本に帰ってきてもう何カ月も経つのに勿体なくて食べることができません。
しかしながら、このチョコメダルはいつかUTMBを楽しむことが出来るレベルになって、エントリーが決まった時になって美味しく食べられるものと思ってます。
ということでグダグダなレポートは終わりですが、最高を求める旅はまだまだ終えることはできません。
目指せ、「いつかはモンブラン、いつかはUTMB!」